野生のイノシシから豚へ
イノシシ(Sus scrofa)はアフリカ北部からユーラシア大陸及びアジアの島嶼に広く分布しており、家畜化された地域は複数と考えられている。
家畜化された時期については種々の問題があって、決定することは困難である。家畜化という現象は長期にわたって連続的に行われるために判断が難しい。しかし、ヨルダン渓谷では紀元前6,000年の農耕遺跡から出土した豚の骨が一番古いとされている。また、スイスの湖棲民族の遺跡(新石器時代、紀元前5,000年)、メソポタミア(紀元前4,000年)、エジプト(紀元前3,000年)、アジアの南東部(紀元前2,000年)等で豚が飼われていた証拠が見つかっている。なお、中国では新石器時代の豚の骨が見つかっており、今後も発掘調査が進むとさらに古い年代のものが見つかる可能性がある。
日本の養豚の歴史1
仏教伝来を契機に変化した日本人の食肉文化
わが国で猪(豚)を食べはじめた歴史は大変古く、新石器時代の遺跡から鹿や狸と一緒に猪の骨が出土していることが確認されていますが、これが狩猟によるものか、飼育されていたものかは明らかではありません。
ではいつ頃から家畜として猪(豚)を飼養しはじめたのでしょうか、これには様々な見解があり、記されているものがなかなか見つからないのですが、おとなりの国、朝鮮半島のことを記した「東夷伝」という西暦200年代頃に書かれた本のなかに、朝鮮で猪(豚)の飼育がされているとの記述がされています。
また、日本国内で飼養されていた記録には、西暦600年代に書かれた「日本書記」の中に大陸から渡来した人の家で猪(豚)を飼養しているとの記述がされていることから、猪(豚)を家畜として飼養する技術については、西暦200年代から600年代頃に大陸から来た渡来人によって、広められたと考えられます。
しかしながら仏教の伝来に伴い、徐々に殺生禁断の思想が日本国内に広まっていくと、食肉の習慣が無くなり、養猪(養豚)も衰退していきました。
海外諸国との関係が深まるにつれ再開する養豚
再度日本国内で豚が飼われるようになったのは、徳川時代で「牧畜雑誌」によると1664~1691年に中国人によって、現在の長崎県に豚が輸入されたことが記されています。また、鹿児島県においても江戸時代の分化年間に橘南鶏という人が記した紀行文のなかに、肥料を取るために豚を飼養していることが書かれています。その他、千葉県、神奈川県、埼玉県、北海道、茨城県等でも江戸時代から豚を飼育していたという記述が残っています。
しかし、明治になるまでは日本人の食肉の習慣は仏教の教えである殺生禁断の思想の影響から公にはありませんでした。
例外的に、南西諸島ではかなり古くから島豚と呼ばれる豚が飼育されてきましたが、現在ではほとんど見られなくなり、近年沖縄県で銘柄豚として復活が図られています。
日本の養豚の歴史2
急激な成長を遂げる明治・大正時代の養豚産業
江戸から明治に改まると、政府の重職である大久保利通は、国内における産業の振興をはかり、二つの大きな目的を定めました。そのひとつが畜産の振興であり、畜産物の消費を伸ばし、欧米諸国に負けない体躯に改善し、富国強兵策の足がかかりとしたのです。
そして明治5年には内藤新宿(現在の新宿御苑)に観察寮出張所が政府により設置され、そこに外国産の作物や家畜を導入し、養豚については、政府の雇った外国人H・ホールの指導のもと、わが国で初めて西欧の豚の飼育法を取り入れた養豚が始められました。その後、各地にある政府の試験場などにも西欧の技術を取り入れた養豚が広まっていきました。また、当時導入された品種は米国産チェスターホワイト、英国産サフォーク、バークシャーなどでした。
このような公的な機関で生産された子豚が、やがて民間に払い下げられていき、養豚は全国各地に広がっていきました。
明治の後半には、日清、日露戦争がおこり、軍の食料として豚肉の需要は急速に高まるとともに、養豚産業も活性化していきました。
明治から大正にかけて多く飼養されていたのはバークシャー、中ヨークシャー種でした。その理由について明治、大正の畜産界の指導者石崎芳吉氏は、「2品種の原産国である英国と当時の日本の飼養環境、エサ事情などが似通っており、日本で飼養する事に適していた」と述べています。また、当時の豚のエサは、現在のようなトウモロコシ等を主原料とした配合飼料ではなく、食品産業から出る廃棄物や家庭から出る食物残さが多かったので、養豚が盛んになったのは、食品産業が盛んな地域や食物残さが多く出る都市部でした。そして、豚肉の食べ方についても現在のように焼肉やトンカツではなく、ベーコンやハム、缶詰など加工食品として主に食べられていました。
トンカツの登場は大正9~10年ごろの浅草の大衆食堂あたりからだとされており、もともとは長崎(南蛮)料理から普及したものと考えられています。
第2次世界大戦と戦後からの復興
昭和に入ると、ただ単に養豚を奨励するだけではなく、耕地に家畜の排せつしたふん尿を厩肥として還元する有畜農業が奨励され、施設や器具の設置にたいしても政府から奨励金が交付されるようになりました。このような背景もあって、昭和14年には戦前最高の115万頭近い頭数が国内で飼育されていました。
さらに第2次世界大戦を契機に、食料の増産策が国をあげて強力に進められるなか養豚も急成長をしたものの、戦争が長引くにつれて食糧難と飼料事情の悪化から養豚は一気に衰退し、敗戦直後の全国の飼養頭数は8万頭強まで減少してしまいました。
その後、食料事情が好転し、食生活が洋風化してくるにつれ、養豚が再び注目され、徐々に復興をしてきました。
また品種においても、昭和35年にアメリカより援助物資として欧米原産の大型品種が導入され、在来の中ヨークシャー、バークシャーとの交雑により肉豚生産が行われるようになりました。しばらくすると、ランドレース、大ヨークシャー等の大型種の発育や繁殖能力の良さが次第に注目を集め、従来飼養されていた中型種の中ヨークシャー、バークシャーに取って代わるようになってきました。またこの背景には、飼料事情が好転し、栄養価の高い飼料が米国から入り、急速に普及していったこともあります。
日本の養豚の歴史3
量より質の時代
その後現在に至るまでには、より効率的な生産体制を確立するために、更なる品種の改良や飼育技術の改善が進められ、養豚産業は戦後順調に発展を遂げてきました。結果的には、年間2千万頭の肉豚を生産するに至り、牛、鶏を含めた食肉需要の40%を占めるまでの産業に成長しました。
しかしながら、一方では豚肉の輸入自由化、担い手の減少等の深刻な問題も発生し、近年では全国の飼養頭数はほぼ横這いですが、飼養農家数が急速に減少しています。
これまでは生産効率を高めていく事に生産の重点が置かれていましたが、経済力の向上、生活水準の向上から食料が豊富になる中で、量よりも質が求められる時代となり、養豚産業は新たな変動期を迎えていると言えるでしょう。